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「あれっ、あった!?」

あまりにも予期していなかった出会いに、心の準備を失念していたシンジは、思わず大きく声を上げた。

何気なく立ち寄った、お世辞にも品揃えが豊富とは言えない書店で、ようやく求める本が見つかったのだ。

他の人に取られまいと(他に人はいないのだが)、急いで棚の隅に置かれていた上・下2巻を手に取る。

「うわ〜、あった、あったよ」

口の中で小さくつぶやきながら、笑い声が漏れそうになるのをどうにかこらえつつ、分厚いハードカバーの2冊をしっかりと両手に掴むシンジ。

しかし、まさか、こんな古びた小さな店で見つかろうとは。

いや、こんな店だからこそ、長く人の目から逃れてきたのかも知れない。

逃れて自分が来るのを待っていたかのように、<手ニ取ッテ読メ>と呼び掛けているかのように、シンジには思えた。

遺跡を発掘した考古学者の感慨を味わいながら、手にした宝をまぶしそうに見つめる。

ページをめくってみると、その幾つかには、端が折れていたり、かつて水に濡れたであろう跡が残っていた。

本来、定価で売る物としてあるまじき状態なのだが、あの時代の本であれば許される。

奥付けを見ると、2冊とも「一九九〇年一月二十五日 初版」、続いて、上巻には「一九九一年一月十八日 十二版」、下巻には「一九九一年一月十日 九版」とある。

あらためて、シンジは本の重みを、その歴史と共に、強く両手に感じた。

本が自分の身に刻んだのは、ただ年月ばかりではなかった。

西暦2000年以前に発行された書籍は、ほとんどが書店には出回っていない。

セカンド・インパクトの影響により、全てが壊滅的な打撃を受け、もちろん、書店や図書館、出版社も例外ではなかった。

水没し、焼失し、破壊され、出版社に保管されるデータ自体が欠損あるいは消失してしまったものも少なくなかった。

かろうじて残っていた書籍も、持ち去られ、生活のための燃料と化していく。

書物にとっての喜びは、読まれることにあるというのに。

そして、長い間、放置されたままだった。

最初の数年は、何よりも生きる事が最優先とされた。

続いて、かつての生活を取り戻すべく、都市の復興が急がれる。

失われた書物へと思いが至ったのは、ようやく、ここ数年の事だ。

しかも、社会的に活字離れの傾向が進んでいるせいもあるのだろうが、復刻の歩みは牛のそれにも似て(それでも、手が差し伸べられれば、まだ幸せな方だ)、かつては多くの人に知られたベストセラーであっても、相当に耐えて待たなければならない。

だから、シンジはこの幸運を心から神に感謝すべきなのである。

にもかかわらず、心の中は、喜びが7割、そして、残念が3割であった。

「でもなぁ」

3割の残念が顔を出し、シンジは軽くため息をついた。

「あと1ヶ月早く見つかってたら良かったのに」

彼のわずかなわがままを、神もお許しになる事だろう。

そもそも、シンジが本を探していたのは、彼の恋人、綾波レイのためなのだ。

何をきっかけとしたものか、多分読書好きの嗅覚なのだろう、レイはこの本について紹介しているサイトに目を留め、少なからず興味を示した。

シンジにとって、それはとても喜ばしい事だった。

レイが読書を続けていたのは、シンジと出会う以前から。

しかし、読書が好きになったのは、シンジに出会ってからだった。

以前は、知識を得るためだけの。

今は、知識と、感動と、喜びを得るための。

だから、レイは様々なジャンルへと読書の対象を広げていった。

そして、内容の乏しい本を読めば、もの足りないと、不満を感じるようにもなった。

もっと面白い本が読みたいと、求めるようになった。

かつては、与えられた使命を、与えられた定めを、盲目的に受け取るだけだった少女が。

そして、ある日、レイは、この小説があるのを知る。

シンジは、とある日の会話の中で、レイに探し物があるのを知る。

探したんだけど見つからない、と、吐息混じりに話すのを聞く。

シンジはレイを喜ばせてやりたいと願い、彼女に内緒で、あちらこちらを探し回った。

近場はレイが探索済みなので、遠方の大きい新・古書店を何件も回り、ネットでもオークションに出品されていないか細かくチェックしていた。

しかし、懸命の努力もむなしく、願う日までに、本は見つからなかった。

もし、間に合っていれば、3月30日、彼女の誕生日に、プレゼントする事が出来たのだが。

とはいえ、この本がレイに大きな喜びをもたらすのは間違いない。

「よし、買うぞ」

勢い勇んで、シンジは真っ直ぐにレジへと向かった。

今日だって、構いはしない。

彼女を喜ばせる事の出来る日は、どんなに多くても構いはしないのだから。

 

サン・ジョルディの日記念SS

REI&SHINJI

「trado」

 

「ただいま〜」

と言っても、返る声はない。

シンジが帰宅した時、レイはまだいなかった。

今日の午後は、シンジが受ける講義は1つだけ。

すぐに帰ってもレイはおらず、どうせ退屈なだけなので、シンジは大学からの帰り道に、普段とは違った、遠回りなコースを選び、馴染みのない商店街を散歩がてら歩いた。

そして、特に期待もしていなかった書店で、思いがけない出会いを得るのだった。

「でも、ラッキーだったな、ほんとに」

リビングに腰を下ろし、感動のため息と共に、バッグから取り出した本をしみじみと眺めるシンジ。

レイの驚く顔が頭に浮かんでくる。

喜びに輝く笑顔が、シンジをじらす。

「綾波、早く帰ってこないかな」

とはいえ、一緒に昼食を取った際にレイが帰ると言っていた時刻までは、まだまだ遠い。

シンジは本を開き、ページに流れる文字を目で追っていった。

中身は推理小説だった。

主人公が書いた手記という形で物語が進んでいく。

初っ端から、かなり難解な語句が並び、相当に読む人を選びそうな内容だ。

「面白そうだけど、なんか難しそう」

そうつぶやくものの、読むのを止めようとはしないシンジ。

ちっぽけなプライドと笑わば笑え、自分よりもスムーズに読み解いていくであろうレイに対し、情けない姿を見せたくないとの気持ちの故だった。

しかし、レイの読書量は相当なもので、大学においては『本の妖精さん』の異名を持つ。

すでに負け戦は決まっているのだが、それでも手を止めさせないのが、プライドのなせる技か。

そんなシンジが苦闘から解放されたのは、午後5時も半ばを過ぎた頃。

ピッ!

「おっと!」

キーの開く音に、読んでいた本を慌ててバッグに隠すと、シンジは早足で玄関へと歩いた。

「ただいま」

「おかえり」

「うん」

迎えるシンジに笑顔を返すレイ。

この部屋で共に住むようになって、まだ日は浅い。

まだまだ慣れない事ばかりで、戸惑いも多い。

しかし、ここに至るまでの間に、レイもシンジも、多くのものを積み重ねてきた。

そして、レイもシンジも、以前より多くのものを、その身に持っている。

「ね、綾波」

リビングに入るとすぐに、待ち切れない気持ちを懸命に抑え、さり気なさをどうにか装いつつ、シンジは言った。

「ちょっと、目をつむって欲しいんだけど」

「え、うん」

きょとんとした目をしながらも、レイは素直にシンジの言葉に従う。

シンジは静かにバッグへと近付き、中から本を取り出すと、多少緊張した面持ちで、目を閉じたレイの前に差し出した。

「目、開けてもいいよ」

「うん」

最初に目に入れたのは、嬉しそうに笑うシンジの顔。

そして、次に、シンジの持つ本が目に入った瞬間、レイの顔に驚きと喜びが広がった。

「碇君、これ!?」

「今日、本屋で見つけたんだ。綾波にプレゼントだよ」

「あ、ありがとう、碇君! 嬉しい!」

その言葉に、シンジは胸が熱くなるのを感じた。

「本当は、誕生日にプレゼントしたかったんだ。その方が、なんていうか、ドラマチックだろ? でも、探したんだけど、見つからなくて」

「ううん、とっても嬉しい! ありがとう、本当にありがとう、碇君!」

溢れんばかりの笑顔で、レイは、本と一緒に、強くシンジを抱き締めた。

後ろによろけないようこらえながら、シンジはレイの積極的な行動に驚きを感じていた。

恥ずかしい訳ではないし、もちろん、嫌なんて事は決してない、けれど、考えると、とにかく、体が動かなくなってしまう、と、以前、レイはシンジに言った事がある。

心の激しい動きに、まだ少し、慣れていない部分があるからだろうか。

そのため、普段であれば、抱き締めるのも、キスをするのも、シンジからのアプローチが常だった。

(なのに、よっぽど嬉しかったんだな)

「うん、良かった」

両腕がふさがっているシンジは、せめてもと、レイの髪に顔をうずめた。

「今日は僕がご飯作るからさ、綾波は、それ読みなよ」

「え、でも・・・」

いつもなら、晩ご飯はふたりで一緒に作る。

せっかく手に入れてくれた本だし、一刻も早く読みたいという気持ちはもちろんあるのだが、一方で、シンジと一緒にご飯を作る時間も捨て難い。

「でも・・・、でも・・・」

迷っているレイの様子に、思わず吹き出しそうになるシンジだったが、

「いいから、今日は僕に任せて」

重ねて言い、

「・・・うん」

ようやく、レイは微笑みと共に頷いた。

 


 

今夜のご飯は、レイの好きな、魚介類のトマトソースパスタ、モッツァレラチーズと野菜のサラダ、そして、ストラッチャテッラ(イタリアのかき玉風コンソメスープ)だった。

「美味しい」

「そう、良かった」

レイが美味しそうに食べる様子を見て、シンジも満たされた気持ちで食事を進めた。

「どう、本は? おもしろい?」

「うん、とっても」

満足そうに頷くレイ。

その瞳には、刺激された好奇心から放たれた光が溢れている。

「碇君も、読みたい?」

「いやぁ、面白そうだとは思うんだけど」

苦笑しながら、早々に白旗をあげるシンジ。

そもそもちっぽけなものだったので、プライドはもうどこかに行ってしまっている。

「実は、最初の方を読んでみたんだけど、僕には、ちょっと難しくって」

「そう?」

「かなり難しい語句がいっぱいっていうか、内容が色々詰まってるっていうか。綾波は、ちゃんとわかるんだよね、あの話?」

「うん、大丈夫」

「やっぱり、さすが綾波だ、すごいね」

「そんな事ないけど・・・」

この時、レイはシンジを見つめながら、少しの間、何事かを考えた。

迷ったのは、ほんの一瞬。

そして、はにかんだ様子で言った。

「だったら・・・、私が読んであげる・・・」

「え?」

「私が碇君に読んであげる・・・。わからない所は、教えながら・・・」

「え、いいの? でも、それじゃあ、ずいぶんと読むのがゆっくりになっちゃうよ?」

「いいの」

確かに、シンジも本の内容には少なからず興味がある。

レイに解説してもらえば、ずいぶんと理解も容易になるだろう。

とはいえ、かなり分厚い本、しかも、上・下2冊なので、更なる手間まで加えては、読了までにかなりの時間が掛かってしまう。

そこまでしてもらうのはレイに悪いし、まだ少しばかり残っていた男のプライドにも引っ掛かる。

思わず、「僕だったら、綾波が全部読み終わってからでいいよ」と、口から出そうになるシンジ。

だが、レイの期待に輝く笑顔が、言葉を喉の奥へと仕舞い込ませた。

もちろん、レイだって、続きをひたすらに読み進めていきたいという気持ちがあっただろう。

ずっと読みたいと思っていた本なのだから。

それでも、レイは、シンジと共に出来る時間を選んだ。

シンジのためにしてあげたいという気持ちの方が、ずっと大きく胸を占めた。

そんなレイの想いを、シンジは確かに感じていた。

光輝く瞳に、かすかに上気する頬に、はっきりと見て取れた。

レイが、自分で考え、自分で望み、自分で伝えた事。

シンジにとっては、それこそがなにものにも代え難い。

「そう、じゃあ、お願いしようかな」

「うん」

 

食事を終えたふたりが、リビングのテーブルを挟んで向かい合って座る。

今日から始まる、夜の朗読会。

空から月が柔らかな光を投げる頃、とあるマンションの一室で、朗々と声が流れる。

レイからシンジへ、物語が渡される。

 

「 − 「アドソよ」師が言った。「この旅のあいだじゅう、おまえには教えてきたはずだぞ。偉大な一巻の書物にも似て、この世界がわたしたちに語りかけてくる痕跡を読み抜くこと、それがいかに大切であるか。アラーヌス・アブ・インスリースも言っているではないか、
コノ世ノアラユル被造物ハ  アタカモ書物ヤ絵画ノゴトク  ワレラニトッテハ鏡ノ内ニアル − 」

 


 

この数日、レイの朗読を聞きながら、シンジは、内心、驚きを隠せずにいた。

確かに、難解な部分を解説してもらえば、本の内容もより深く理解出来るだろうと思ってはいた。

しかし、シンジが想像する以上に、レイの朗読は大きな充足をもたらしていた。

本を読むのと並行して、レイはシンジの様子を細かにうかがい、シンジが難解に感じている部分を即座に察知する。

シンジが尋ねるよりも前に、冗長によって物語の流れが損なわれないよう、的確かつ簡潔な言葉で補足する。

それだけではない、控えめながらも抑揚のある声で、登場人物の心情まで現わそうとする。

おかげで、シンジは、映画でも見ているかのように、物語の鮮明なイメージを思い浮かべる事が出来た。

ただ知識だけでは、こうはいかない。

豊かな知恵をもって、伝えたいという熱意をもって、初めて生み出せる感動だった。

「いい先生になれるね、綾波は」

「え?」

「だって、すごくわかりやすいもの。なんか、頭に入って来るんだよ、こう、スルスルって」

テーブルを挟んで向かい合う様子は、すっかり教師と教え子である。

「本当?」

「本当だよ。それに、声がとっても素敵だし」

「声? 私の?」

「うん、かわいいし、きれいだし。そうだ、アニメの声優とかになってもいいかも。大人気間違いないよ」

「もう、からかわないで」

顔を赤くしながら、おかしそうに笑うレイ。

「あれ、冗談で言ってるんじゃないのに。歌も歌って、CDも出したりして、それでもって、ラジオのパーソナリティなんかもやったりして。ああ、今の内にサインもらっといた方がいいかな」

そう言いながら、シンジも笑う。

「もうダメ。読めなくなっちゃう」

レイは笑った表情のまま、顔を横に小さく振ってから、手元の本へと目を戻した。

声におかしさをにじませつつ、レイは朗読を再開する。

 

「 − 「入浴は、結構なものだ」ホルヘが言った。「アクィーノの聖者も悲しみを取り去る方法として勧めている。何しろ悲しみは、放っておくと、悪しき激情になったり、いずれは思い切った治療を必要とするような病気になりかねないから。入浴は、情緒の安定を取り戻させてくれる。ところが笑いは、身体を揺らして、顔の形を歪め、人間を猿のごときものに変えてしまう」
「猿は笑いませぬ。笑いは人間に固有のものであって、人間の理性の徴(しるし)だ」ウィリアムが言った。 − 」

 

時の流れの中で、レイの表情が豊かさを増していく様子を、これまでシンジは見続けてきた。

出会って間もなくの、あの日、あの戦いの後、エントリープラグの中で見た笑顔。

あの時の笑顔も、息を呑むほどに美しかった。

しかし、今のレイが浮かべる笑顔は、輝きを強め、複雑さを増し、より多くを現わしている。

感情がなかった訳ではない。

感情がある事に気付いていなかった。

それまで、気付かせてくれる出会いがなかった。

しかし、今はもう、レイは知っている。

喜びの笑顔。

感謝の笑顔。

期待の笑顔。

楽しさの笑顔。

豊かになっていく、心。

 

「 − 「タキトゥスはカルプルニウス・ピーソーに諧謔(かいぎゃく=ユーモア)を讃(たた)えているし、小プリーニウスも書いている。
<ソレカラ、トキニハ笑ッタリ、フザケタリ、冗談ヲトバシタリスルコトモアル。ツマリ私ハ人間ナノダ>」 − 」

 


 

「 − 私たちは[四つあった]通路の一つを潜(くぐ)った。すると別の部屋へ入り込んでいて、そこには窓が一つあったが、窓ガラスの代わりに、雪花石膏(アラバストロ)の板が嵌(は)めてあった。壁面の二つには通路がなく、いま潜ってきたのとまったく同じ形の、もう一つの通路があって、さらに別の部屋へ通じていた。 − 」

 

そこまで読んで、わずかに思案し、レイは先を探してみた。

すると、案の定、建物内部を示した図の描かれたページがあった。

複雑な構造によって作り出された迷宮の図。

物語の核心となる舞台を示す地図。

「碇君、ここ」

レイは向かいに座るシンジが見やすいよう、本の向きを変えようとした。

しかし、それではレイが読めなくなってしまう。

「どれどれ?」

当然の流れで、シンジはレイの向かいから隣へと場所を移した。

「ほら、最初は、この「e」の塔の「A」の部屋。この「A」は、さっき出てた「Apocalypsis Iesu Christi (イエス・キリストの黙示)」の「A」。ここから、次の部屋は、「Super thronos viginti quatuor (座席の上には二十四名)」の「S」で、ここ」

主人公達の移動ルートを指で示すレイ。

レイの指先を、目で追うシンジ。

図を良く見せようと、シンジの方へ本を寄せ、図を良く見ようと、レイの方へ体を傾ける。

 

「 − 「よく考えてみよう」ウィリアムが言った。「一つずつ窓のついている長方形もしくは台形に近い部屋が五つあって、螺旋階段で昇ってきた窓のない七角形の部屋を取り巻いている。」 − 」

 

シンジの耳元で、レイが本を読む。

レイの声が、シンジの耳をくすぐる。

「えへん・・・・・・おほん・・・・・・。ちょっと」

「え?」

わざとらしい咳払いの後、シンジはレイを止め、その場から立ち上がった。

決して、物語の筋がわからなくなった訳でも、物語に飽きてきた訳でもない。

ただ、より快適な環境で朗読を聞きたくなっただけだ。

「碇君?」

シンジはレイの後ろに場所を移した。

自分は壁にもたれると、レイを自分の側に引き寄せ、背中から抱きかかえるようにする。

「はい、続き」

そして、シンジはレイの肩ごしに耳を澄ます。

レイは、自分の腹部へと回された両腕をくすぐったく感じながら、それ以上に優しい温もりに身を任せた。

シンジへ身を預けられる安らぎに、幸福に浸る。

「うん」

浸り続けていたいと感じて、本へと意識を戻すまでに少し時間が掛かった。

 

「 − 「そうだ、わたしの勇敢な戦士よ。おまえは、いましがた写字室で、あれほどまでに勇敢に真の敵へ襲いかかったのに、いまは目の前の自分の影に怯えている。鏡だよ、鏡がおまえの姿を大きく伸ばしたり歪めたりしているだけだ」 − 」

 

読んでいる最中も、気持ちが後ろに引かれる。

こんな時、どうしたらいいのか、わからなくなる。

いつも、わかっているのに、わからなくなる。

 

「 − 「この世は何と美しいのでしょうか。それに比べれば、迷宮というのは、何と醜いものなのでしょうか!」私はほっとしてそう言った。
「迷宮を抜け出す規則さえ見つけられれば、この世はどれほど美しくなることだろうか」師はそう言った。− 」

 

突然、レイは後ろを振り返った。

「ん?」

シンジが気づくよりも前に、レイは体を離した。

あっという間の出来事。

そして、レイは、一瞬、じっと、静かにシンジを見つめた。

その瞳は大きく見開かれ、自分のした事に驚いている様子だった。

レイはシンジにキスをした。

それは、レイがキスをしたいと望んだからだ。

けれど、実際に自分からシンジにキスをするとは、寸前まで、全く思ってもみなかった。

なぜあんな事が出来たのか、自分でもわからない。

いつもなら、胸の鼓動が激しくて、体が動かなくなるのに。

心が体を裏切ったのか。

体が心を裏切ったのか。

けれど、この裏切りは・・・。

レイは頬を上気させながら、すばやく前に向き直した。

シンジは、真っ直ぐに本を見つめている横顔を、確かめるようにそっと見る。

そこには、溢れんばかりの光があった。

満足げで、誇らしげで、はしゃいだ、いたずらっ子のような笑みが浮かんでいた。

それは、シンジが初めて見る笑顔。

レイが初めて見せた笑顔。

シンジは後ろから包むように、本を下から支えるようにして、レイの腕へ自分の手を添えた。

そして、レイから渡された温もりを唇に感じながら、喜びを含んだ声で言った。

「さ、読んで」

「うん」

シンジに向かって柔らかく微笑み、体を後ろに預けると、レイは朗読を再開した。

本の続きを読んで、レイが伝える。

物語を受け取りながら、シンジは思う。

これまでも、レイには色々と驚かされてきた。

しかもこれから先、まだ何度も、驚かされる事になるだろう。

その一つ一つが、レイから受け取った光。

自分には、それこそが幸福なのだ、と。

時を重ね、歴史を重ね、レイは迷う事、悩む事をおぼえた。

複雑さを増して、広がりを増して。

それは、より豊かな人の生を生きている証しだった。

そして、レイとのふれあいの中で、シンジも変わる。

迷いながら、悩みながら、それでも、前へと進んでいく。

倒れる事なく、前へ。

レイの中にも、シンジの中にも、まだ無数の光が隠れている。

迷宮を作り出すのは人間だ。

そして、迷宮を抜け出す知恵を持つのもまた、人間だけだ。

互いに支え合って。

互いに渡し合って。

心の奥に埋もれている光を、レイとシンジは、ふたりで一緒に、一つ一つ見つけ出していく。

長い時の流れは、ふたりに味方する。

 

「 − 「煎じ詰めれば、おまえの言うとおりだ。わたしたちにわかっていることは、まだあまりにも少ない。さあ、行こう」 − 」

 

夜の静けさが満ちる中、レイの声が流れていく。

全てを読み終えるまでには、まだだいぶ時間が掛かる事だろう。

しかし、たとえ、どれほどの時間が必要だろうと、構いはしない。

ふたりにとって、喜びの日は、どんなに多くても構いはしないのだから。

 

 

「trado」 終わり

 


 

後書き

 

さて、4月23日は「サン・ジョルディの日」です。
はい、マイナーですね。
マイナーですが、男性は女性に赤い薔薇を、女性は男性に本を贈る日、って事になってます。

という訳で、シンジがレイにプレゼントした、レイがシンジに読んで聞かせた本には、タイトルに『薔薇』の文字があるのです(色が赤かどうかは知らんけど)。
別に隠す必要もないんですが、ものが推理小説なもんですから、ちょっともったいぶっときます(どうせ、すぐわかるし)。

それから、タイトルの「trado」とはラテン語で“渡す”、“伝える”、“教える”、そして、どういう訳か、“裏切る”といった意味です。
ちなみに、野球やなんかで選手があっち行ってこっち行ってするのは、「trade」です、念の為(そういえば、昔、デヴィッド・クローネンバーグの『ラビッド』を見て、「ウサギが出てこないのに、なんで?」とか思ってたっけ)。
で、なぜラテン語なのかといいますと、小説において、謎の扉を開く鍵がラテン語だからです。

 


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